3月30日

感傷的な気分になったので、少し書いておこうと思う。

結局、人間って生きていくしかないんだよな。

震災で両親を亡くした青年のドキュメンタリー、エヴァンゲリオン庵野監督のドキュメンタリーを見て、そう思った。いや、思い出した。

一見、無関係に見えるこれらのことは、実は一つの共通項でくくられると思う。

それは、みんな何かを失ったということだ。

ドキュメンタリーでは庵野監督の父親が片足を失っていることが明らかにされた。それにより家族で出かけた記憶がなく、庵野はそれが欠けていることだという。

ドキュメンタリーを見た後でこんなことをいうのは後出しじゃんけんのようにしか聞こえないが、序破Qを見た後でエヴァの主要な登場人物がみんな何かを失った人だと気付いた。

シンジは両親を、アスカは母親を、レイは人間を、ミサトは父親と恋人を、ゲンドウは妻を失っている。人はいずれ死ぬのだから、彼らが誰かを失ったとしても不思議ではない、ということも可能だろう。しかし、彼らはいわゆる「普通」の人に比べるとかなり早いタイミングで人間を人間たらしめる大事な人を失っている。これが庵野の言う「欠けている」ということなのかと、そう理解したつもりだ。

(余談になるが、このことに気付いた時、私は「失った」と理解したつもりだった。しかし、ドキュメンタリーの中では「欠けた」という表現で語られており、こちらの方が適切な表現だと感じた。)

こういう風に理解したのは、自分自身、幼い頃に父を自殺で亡くし、兄を交通事故で亡くした経験があるせいだろう。どんなに長い年月が経ってもこの記憶が体に染み込んで、二度と出ていこうとしない。上で述べたような解釈はこの記憶のおかげでもあるけれども、この記憶のせいで随分と苦しめられてきたし、今も苦しんでいる。といっても、人の助けを求めるほどではないが。

最初の話に戻ると、震災で両親を亡くした青年のドキュメンタリーもこの記憶を呼び起こすのにそれほど多くの時間を要しなかった。彼はかなり自分と類似した経験をしていた(もちろん親も友達も故郷も失った彼の方が自分より相当辛いだろうとは思うが)し、何よりも彼が通っていた塾の講師の言葉が胸に刺さった。その講師は彼が両親を失ったという事実から目を背けていたことに対し、両親の死を受け入れるよう諭したのだった。

私も父が死んだ時はどこか出張にでも行ったのだと思い込もうとしていたし、兄が死んだ時もどこか旅行にでも行っていたのだと思い込もうとしていた。しかし、私の父と兄が死んだという事実は何も変わらない。彼らは永遠に帰ってこないのだ。私が彼らと酒や言葉を交わすことも決してない。その事実から目を背けて生きるには、人生というものは長すぎる。いつしかそう思うようになった。

この間公開された新劇場版でも同じことが想起された。結局、時間というもの我々がどう思ってもどう足掻いても勝手に進んで行ってしまう。それに合わせて我々の人生は進み、寿命は短くなるばかりだ。父と兄を亡くしたという事実は消えないし、今後も苦しみ続けていくだろう。だが、いちいちそれに構ってやる暇は生憎持ち合わせていない。それならば、思い切って自分の人生を楽しく健やかに過ごして行こうではないか。「生きる」ということをもっと実感しようではないか。そういう風に思えてきたのはここ2、3年で自分の頭から消えかかっていたので、今回わざわざ引っ張り出して、記録に残しておこうと思った次第だ。

やたらと小難しい言葉を使っているのは、そういう文章に対する憧れでもあるし、より正確に自分の気持ちを表現するためでもある。何卒、ご理解頂きたい。